会社をリタイアし、来し方行末を考えました。学生時代から引き摺っていたある問です。具体的に申しますと、多くの死者を弔う時、合掌の虚しさです。これまで親、親族、友人、社員、取引先の葬儀に参列してきました。死者の顔を見つめるその都度、「いったい何に対して私は手を合わせ、弔意を伝えようとしているのか、読経の響きは香の煙とともに虚空に消えていきました。

その不安と虚無に対する答えを求め自分の人生の終盤を迎える時に、看取り士の記事を目にし、看取り講座を学び、柴田会長の本を読みました。
看取りの最期のときに逝く人に寄り添うこと、身体に触れる事の大切さを、改めて知りました。他者の視線や気おくれ、遠慮はいらない。もっと素直な感情を伝えるため、触れること。逝く人との最期の別れを安心して送る作法を学ぶことができたことです。
しかし私の問の解は得られてはいません。看取る事の問ではなく、看取られる自己の問であることが増々明らかになってきました。問の立て方が逆でした。そんな折、健康診断の結果がありました。
大腸ポリープの奥にガンがあること、そこから肝臓に転移していたのでした。急ぎ、手術(患部の除去)はうまくいきましたが、ステージ4(向こう5年の生存率が20%)との告知がありました。有難くない話ですが受け入れることしかありません。
後は抗がん剤治療による延命治療に入る事になります。看取る立場から看取られる立場に急転直下しました。正確には看取ることと、看取られる事の2重性に視界、思考が広がったことです。

唐突ですが、トルストイの作品に「イワンイリッチの死」という小説があります。ご存知の方はいらっしゃるかと思いますが、社会的に成功を得た裁判官が自宅のリフォーム中、怪我で病が急に悪化し回復の見込みなく、数週間後には亡くなる物語です。
仕事、家族、友人にも恵まれた人生の絶頂期に死なねばならなくなった人間の苦悩がよく描かています。
努力して得た地位、財産、愛する家族を持ってしても、死(絶対のゼロ)には勝てません、一切は無です。
「イワンイリッチの死」の表題にふと気が付きました。他者から見るイワン・イリッチの死とイワンイリッチ自身の死の二つがこの表題に込められているのだと思いました。つまり他者が看取る「死」と看取られる「死」の二重の死です。主人公は他者から死にゆく自分に向けられる眼差しと自分自身が受けとめることができない「死」に苛立ち、呪詛します。今まで「死」は風景でした。統計でした。3段論法:人間は死ぬ。ソクラテスは人間である、故にソクラテスは死ぬ。どこか他人事、風景でした。

しかし、いざ自分が死ぬとなると平然としてはおれません。「何でこの私が!」から苦悩が始まります。
この他者が、社会が見る「死」との矛盾、相克がリアルに描かれています。幸い最期にはこの矛盾は解消され、永遠の旅立ちを迎え終わります。どうしてそうなったか、できたかは秘密です。読者が自ら答えを見出すしかないというのがトルストイの返答と思われます。
私は、看取られる人の気持ちが分かりつつあります。ですから、同じ思いで悩み苦しんでいる方がいらっしゃるなら、最後の時まで豊な時を過ごす事ができるように、一緒に豊かな時を過ごせるよう、一助となることを願っています。
看取り士 小野澤隆司